今が幸せであれ

明日死ぬ前に書いとこう

潜在意識の力を使っても成功しない(できない)場合もある(約700字)

数日前にもふと思ったことだが

https://blog.hatena.ne.jp/nojokingproject/nojokingproject.hatenablog.com/edit?entry=10257846132694039366

 
その後いろいろと見聞きする情報で

もともとネガティヴな要素が強い人間が
潜在意識の領域にポジティヴィティをいくらぶっ込んでも
というか
ぶっ込めばぶっ込むほど
結果は裏目に出てしまうのは
わたしのばあい(経験則)

たまたま縁あって今続けてるTM瞑想では
潜在意識の領域ではない別の領域から
自身を幸福感で満たし人生を変えるなどの効果を狙っている
この潜在意識の領域でないところを
『無』という方もいれば
『宇宙』という方もいて、また
『悟り』という方もいるが
いずれにせよ、日本の風土歴史文化などがベースになった言語表現であり
認識が合えばそれでいいと思ってる
(西洋だと例えば Divine とか?)

この『無』『宇宙』『悟り』は
潜在意識の世界ではないとしている

ちなみに、先に「効果を狙っている」と書いたことに対して
そういう効果を狙っている、と思うこと自体不純だという向きもあるかもしれないが
わたし自身は以前そう思って瞑想したけど
実際、霞を喰って生きていくことが
自身のネガティヴィティに結びついてしまった以上
やはり現世御利益が必要だ

あとその手法がなんであれ
(瞑想の教師の方々はそれを『科学』とおっしゃるが
この言葉にわたしの概念では違うのかなという抵抗感があるものの
彼らが何らかの共通概念を持っていることは確か)
目的が達成できばいいわけで
それを言えば別に他の瞑想法でも
内観と呼ばれるものでも

つまるところ、形態は瞑想で「なければならない」ことはない。
そして
何らかの宗教や占いや政治や商売がこれを伝えることを生きる糧としており
わたしも実際占いをしているが
それを踏まえてなお
わたしもその方法があることを
叫んでみたいと思うのが
夢といえば夢なのかもしれない

参考リンク:
TM瞑想 https://tm-meisou.jp/what-is-transcendental-meditation/
ヴィパッサナー瞑想 https://www.jp.dhamma.org/ja/art/
Finders Course https://finderscourse.com/ (動画ご覧になられればよいかと)

確定申告の作業(2)(約750字)

昨日峠を越した確定申告の帳簿作成の作業を本日も継続。
昨日はレシートの整理までで
本日はネットのデータの整備。

使用している会計クラウドシステムは
ネットを介して金融期間やカード会社などとのデータを取り込み、
これを利用して帳簿を作成することができる
今回儲けがいかに小さいとはいえ
業務用図書やグッズ購入分など
計上するに越したことない。

で、引き落としの口座と結びつけなくてはならないのだが
引き落とし額に以前のリボ払いやキャッシングという
以前の借財の返済がくっついてる。
これ業務用とそれ以外に分離しなくちゃと思ったが

ふと、その借財を全て一旦事業の負債にして整理するとどうなるかと思った。

そうすると、今までほんとに怖くて向き合えなかった
個人含めた負債がはっきりわかるのでは、と。

以前ならこんな考えは
返済に追われる恐怖で絶対にできなかったはず
なぜこんなことを考えられるようになったのかは今よくわからないが
とにかくいろんな数字をはっきりさせることで
ずっと払拭できなかった恐怖が消えるのだと
理由は分からなかったがそう考えると
妙に心が落ち着く衝動にかられ

カード会社のサイトからダウンロードした明細を
ネットプリントのアプリに載せて
コンビニ行って印刷して戻って
それとネットで取り込んだデータを整理する。

計上を始めてすぐ、利息相当払ってることに気づく。
以前家族に揶揄されてブチ切れたとこだ。
こんなの開業してすぐするべきことで
その時にやってればどれだけセーブできたか
というのが『常套句』かもしれないが
嘘偽りなく言えば指摘されるその時期は
というかずっと前から
返済に追われる恐怖でそれができなかったという記憶が
今しみじみ自分の腑に落ちていて全く動けず

今頃反省してもどうしようもないし
それより数字(金額)をきちんと確定させて
自尊心がとことん低かったわたしが
他人の美辞麗句で得る心の落ち着きではなく
みずからで文字通りの『自信』を取り戻したい

その思いで作業に力が入ってるし
もう丸2日も根を詰めてるが
こういう表現が通常ではないが
『生きたい』と思って必死になってしまう

確定申告の作業(1)(約1,500字)

三が日は近年になく充実しました。
初日、二日目と近所に初詣。
家族の無事と幸せも祈らせていただけましたし
これまで何年か放置していた古札も無事納めさせていただけました。
そして両日とも昨年お世話になった方のお宅にお招ばれになり、
ひとり寂しい正月、にならずにすみました。

それぞれのお宅でそれぞれのご家族の方が
それぞれに仲良く、というか
言いたい放題でリラックスされていた姿を拝見し、
過去わたしはこういった、
家族が穏やかに、のびのびと暮らすような場を
家長としてきちんと作ってこなかったのかもしれないと思うと、
後悔先に立たずだわなぁ、と。
それでもお世話になった方々に、家族って、これでもいいんじゃないの、と
がつんと振り下ろされるでなく
ふわりと受け止めさせてもらえているのはありがたいことでした。

三日目はひたすら家で仕事。
チームの仕事が延期になったのでひたすら確定申告の準備。
初めての青色申告は説明書を読んでも経験がないので実感がつかめず
ただただレシートや領収証をすべて貼り付けたまではしていたけど、
以前税務署で確認したら、事業に必要なものだけ計上するという
ごく当たり前の話を具現化するのに、
全部貼った領収証から、必要と思われるものだけ
ある会計クラウドサービスの帳簿に延々入力する。

それ、聞いた時点で既に手がければというところだが、
今年働いても全然お金にならないことが嫌になり
また勤労意欲まで一時期失い、
そこそこの期間何もしないでただひとりで
この先どうなるんだろうと悶々としてたので
改めてまとめると
恥ずかしいを通り越してなさけない売上額と、
消耗品と旅費交通費と数多の講習費という訳わからん費用と
退職当初とほぼ変わらない借金額を
直視できぬままの日々が続いたが
年越しからふとこの作業を初めて、
レシートの類は整理がついた。

このあとWebで取り込んだ銀行口座やクレジットのデータで
また経費が増えて、とても人様には見せられないが、
それでも年末からここまでワタシ的には勇気をもって力仕事して
峠は超えた、と思えた。
こっちはこれ以上放置してあとで後悔することは、
人生詰ますという切迫感が推進力になった。
併せて今年も3日が経過し、既に次年の会計も始まっている。

作業は日ごとにまとめて貼り付けたレシートを年末から起業まで遡り、
経費になりそうなものが貼ってある日をピックアップし、
経費になると判断したものを入力していった。

途中、レシートの日付と住所を見ながら
このあたりで一緒に仕事してた人に騙されたなとか(2回あった)
ああこの時は上京してあんなことしてたとか
そうそうこの場所でのバイトはほんと虚しかったなとか
結局このお金帰ってこない。情にほだされて貸したが
あいつ一向に連絡してこないな、とか
まあ、1年間の愚かな経済活動の流れがおぼろげに思い出せて、
あれやこれやの反省を思い浮かべつつ、ひたすらキーをタイプした。

こういったことが整理できてないことが、
これから一歩踏み出そうという流れを潰す。
本当に恥ずかしい作業だけど、
ここしばらくの自分の変化でどうにかこなせて良かった。

わたしの場合、ですが、
夢を見なくちゃと思うものの
どうしても夢が見れないのは
今どうなっているかを直視する勇気がないと
できないような気がしている今日このごろで
その今を直視したうえで、
諦めるのではなく、
夢を確立させるという作業が必要な気もして

だから納税の話をまじめに進めざるを得なかった。
器用ではないかもしれないが、致し方ない。

 

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昨日の神社でいただいたお守り。
気持ちだけが前にでるのではなく、
足が出ないと進まんわなあ、と
しばらくこれを大事にしないと、と思ったもの。

潰したいもの(約120字)

潜在意識の力だかなんだかを
もう30年以上も前に聞いて以降
数多の方が知ったようなこと仰るが
ことわたしに関しては
いくらそれを活用しても
求める結果を得られていない
なれば潜在意識の力って
虚構でないか?

反論募集。
ただし『貴方自身の言葉』に限る。

年末年始の食へ(約650字)

2018年12月31日

現状のひとり暮らしに正月準備が要るのかと思ったが
あまり世捨て人になってもどうかと思い、
飾り用の榊は買い求めた。
おせちとか餅とか買ってないけど
あれは正月だから食べなくちゃというものでなく
一緒に集った方がこれ食べようと仰れば食べるもの

味覚が音痴というわけではないが、
グルメだった時期がない。
以前は
・生活厳しい→豊かになったことないという思い→なんでもいいから食べなきゃ
という得体の知れない欠乏感を発露としてたので、
きちんと自分の味覚を使っていたのすら疑わしく、
何人かで集って食事した時も、鍋奉行など一切せず、
食を通じての人とのふれあいの時間を味わうこともなかったかもしれない。

その後今年
・白砂糖と小麦と乳製品を減らし
・1食に占める米を減らすことで、1食全体の米の構成比を減らして野菜などを増やす
・夏野菜は(以前より)消極的に採る
・コーヒーも(以前より)消極的に採る
・他、石油精製品等不使用の健康食品を採る
などしたら、結果、グルテンや米ばかりの時の膨満感が減った。酒も減った。

たぶん、前述の不安感も減っていると思う。
で、今夜本当に食べたかったのは豚肉だったのでそれと酒を買う。
酒は自分用に加え、正月挨拶用。
これも自分の味覚や身体以外に、人とのふれあいのために買ったもの。

こういうわたしからみれば、
いやあ、つい年末年始はみんなと騒いで喋って食べて
余計な肉ついちゃったなあと屈託なく語る貴方のほうが
わたしなんかよりよほど健全だと尊敬する。


さて、今夜は酒と肉を「楽しみましょう」

昔と全然変わってないからこうなってることにようやく気がついてはじめて希望というものがわかったこと(約1,900字)

2018年12月30日

一昨日の感動以来、安らかな日々を過ごしております。
とはいえことしは思い切って春に会社を辞めてから、
収入も激減し、ハードな1年でした。

一所懸命の三十余年でしたが
後半は運もあってかどんどん同僚後輩に出世を越され。
それでもわたしのこの働きが
ほんのすこしでも世の中の誰かのために役に立っているのではないかという想いで
左遷されてもなんとか日々を頑張ってきました。

ですが左遷先での仕事を通じ、
昨年の冬、もうこの業界自体が誰の役にも立たない方向に向かっていると思った瞬間、
それまでの頑張りが一気に抜けて、
それに歩調をあわせたかのように早期退職制度の話が来て、
このままいたって春には減俸が見えてたし
家族の反対も頑張ってうけとめられず、
あっさり退職。

普通、退職というのは、
その後の人生とやらの計画を立ててからするものでしょうが
わたしの場合は、昨年の冬のショックが大きくて、
また何を目標にしてよいのやらわからぬまま、
身寄りのない左遷先でその後の仕事と
自分の目標を探したのですが、
あまりに働きの割に報酬が合わないバイトが嫌になったり、
また事業のために組んだパートナーが、
途中で目的を変えてうまく回らなくなったり、
結局今は、家族をなんとかしたいという気持ちで事業を起こそうとしてる人々などと
仕事をさせてもらってますが、
なにぶん始まったばかりの組織で、
儲けも運転資金優先にせざるを得ず
わたしも人がいいといえば人がいいんですが、
収入が殆ど無い状況で、
やってるしごとが役所対応とかパソコンの文書作成と、
こもって仕事すれば可能という状況に
だんだん生活全体が自堕落になりどう見ても廃人。

でもたとえ当面の収入なくても
今残ってる仕事ぐらいそろそろやらなきゃと
ようやくラップトップに向かって
ここ1か月以上なかったことだが、
1時間以上集中して仕事ができた。
これも一昨日の体験のおかげ。
それくらいささやかな幸せだったんです。

少々寒さを感じる中
この狭い部屋に越してきた時からあった
小さなデスクと座り心地の悪い椅子に座って
この仕事がのちのち何か満足のいく儲けが生まれるのか信じられないまま
それでもひたすら真面目に取り組んでいる自分

…あれ、この感覚、
もしかして小学生のときから
ほんとなんにも変わってない?

父は家族のために一所懸命(そして今も)働いてくれたし、
母も身を正さんと信仰厚い方だったが
子供が5人もいてはなかなか裕福といえる暮らしはままならず
その状況になんとなく劣等感を持ってしまった気弱なわたしは学校でもいじめられ、
田舎街であまり楽しいと思えることなどなく、
演劇が好きでやりたいと言ってもだれもまともに相手してもらえず
本をよむか勉強するかくらいしか継続できることがなく、
別にそれが大好きでもなかったが、
消去法でそれを続けてただけの毎日で
希望らしい希望もなかったあの頃。

信仰が窮屈だと思いつつ、なんで人は生きるのかと問う姿勢は
未だ持ってスピリチュアルと占いに向かい続けて家族に呆れられ
勉学は続けたものの家計を慮って進学を諦めたことで
がんばったって報われないんだという絶望感から抜け出せず

その心情って、
その後運良く東京に出て、思いもよらなかった出世をし、
わたしみたいな者が結婚もしてもらえて家族のために頑張る時もあって
それが一応の成功を納めたようにも見えたけれど
こうして一度いろいろと転落して、
ひとりになって思うのは、
心情自体が、全くもってなんにも変わってない。

あの時からなんにも変わってない。
いつまでたっても夢や希望が具体化できないのは、
ここから抜け出してなかったからだ、と。

遅いと言えば遅すぎかもしれないけど、
おそらくこのループを抜けられれば、
今までのようなおかしなアセンションやら信仰がなくったって、
もう少し建設的な解決策と
それを継続的にすすめるだけの持続力が保てるのではと思うと
今の苦境という想いもももうあと少しかなと思えた。

皮肉にも、
ひとりの仕事のペースを作るため
BGM代わりにタブレットで流してた音楽は、
小学生の頃ブレイクして、今また再浮上してきたYMO
これがきっかけで、
マントラの詠唱やシンギングボウル以外に
未だにテクノ・ハウス系などが好き。

年末ひとりで仕事中。
絵面的にも老いぼれのショボさが映りそうですが
今日の気付きは
目には決して見えないけど
この瞬間から先々の大きな希望が
こんどこそ、こんどこそ
ほんとに開けるような気がして
生きててよかったと一人静かに思え、
それ故こうして綴って残さねばと
綴らせていただけたことに

今までの薄っぺらいそれではない、
ほんとに深いとこで自分自身に
感謝。

ようやく
似非とそうでない信仰の違いを実感できる深いところに
たどり着けた。

「自称」メンター(約1,000字)

2018年12月29日

どうしても馴染めない言葉がある。
「メンター」という言葉だ。

あまりに安易に使われてはいないか。

企業などでメンター制度なるものが取り入れられ、
なにやらそれで実績を積んだ方や
企業以外の組織で
指導者的立場にある方が
「自称」で使われるが

本来であれば他者の評価を経て、
他者により認定されるものではないか
それを自称されるあなたは、
どこまでその方に責任が持てるのか

親が子供を教え、育て、自立させるというのは、
どのタイミングでどんな助言と励ましを与え、いつ手放すか、という
とても難しいプログラムをこなすことになるのだと思う
(また、この過程で親も学ぶことがある)
それはただ「あなたのここを正しくしなければいけません」と
単に否定するではなく
「あなたはこういう考えでこうしてきたけれど、
そのことをどうこれから活用するの?」
と投げかけることも大切で、
だからこそ企業のメンター制度でよくメンターになれと言われた方が
一体自分に何ができるのだろうと迷われるのもさもありなん。
ましてや、諸般の理由により子供と共に育つという状態を作ることがかなわない場合、
親はそれをできない自分を責め、あるいは子に詫び、
祈りを込めてせいいっぱいの思いを自身が知り得る方に託す
孤児として施設に子供を預けざるを得ない親の気持ちってそうなんじゃないかと。
そこまで思うことができるのがメンターではないか、と。

世の「自称」メンターのどれだけが自分の存在をそこまでと思っているのか。
いったん主従関係を主の側で形成し、
従の側を洗脳し、従をコントロールするために
美辞麗句だけを使い、偽りの涙を流していないか、と。
そこのところはメンターではなく、
組織の上官ないし洗脳者というのではないか。
それは従の側の成長を望むのではなく
なんらかの組織のために従の側を活用しているだけ。

わたしの占いの師は
わたしが勝手に師と呼んでいるだけで
彼はわたしを弟子などと思ってすらいない
(しかもわたしが師と呼ぶことに
「過分なる評価」とご謙遜までいただいている)

ある方をメンターとするかどうかは
メンターになってくださいという側からスタートするものと思う。
頼みもしないのにあなたのメンターになりましょうと仰る方や
この方がメンターですよとあてがう方は
ちょっと違うような気がする。
企業のメンター制度の難しいのはここだ。

だからこそ、日々の人との出会いの中で
ああ、会えて、学ばせてもらってありがとうと心から思えることがあったとすれば
それは、幸運の中でも相当のもののような気がする。