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「自称」メンター(約1,000字)

2018年12月29日

どうしても馴染めない言葉がある。
「メンター」という言葉だ。

あまりに安易に使われてはいないか。

企業などでメンター制度なるものが取り入れられ、
なにやらそれで実績を積んだ方や
企業以外の組織で
指導者的立場にある方が
「自称」で使われるが

本来であれば他者の評価を経て、
他者により認定されるものではないか
それを自称されるあなたは、
どこまでその方に責任が持てるのか

親が子供を教え、育て、自立させるというのは、
どのタイミングでどんな助言と励ましを与え、いつ手放すか、という
とても難しいプログラムをこなすことになるのだと思う
(また、この過程で親も学ぶことがある)
それはただ「あなたのここを正しくしなければいけません」と
単に否定するではなく
「あなたはこういう考えでこうしてきたけれど、
そのことをどうこれから活用するの?」
と投げかけることも大切で、
だからこそ企業のメンター制度でよくメンターになれと言われた方が
一体自分に何ができるのだろうと迷われるのもさもありなん。
ましてや、諸般の理由により子供と共に育つという状態を作ることがかなわない場合、
親はそれをできない自分を責め、あるいは子に詫び、
祈りを込めてせいいっぱいの思いを自身が知り得る方に託す
孤児として施設に子供を預けざるを得ない親の気持ちってそうなんじゃないかと。
そこまで思うことができるのがメンターではないか、と。

世の「自称」メンターのどれだけが自分の存在をそこまでと思っているのか。
いったん主従関係を主の側で形成し、
従の側を洗脳し、従をコントロールするために
美辞麗句だけを使い、偽りの涙を流していないか、と。
そこのところはメンターではなく、
組織の上官ないし洗脳者というのではないか。
それは従の側の成長を望むのではなく
なんらかの組織のために従の側を活用しているだけ。

わたしの占いの師は
わたしが勝手に師と呼んでいるだけで
彼はわたしを弟子などと思ってすらいない
(しかもわたしが師と呼ぶことに
「過分なる評価」とご謙遜までいただいている)

ある方をメンターとするかどうかは
メンターになってくださいという側からスタートするものと思う。
頼みもしないのにあなたのメンターになりましょうと仰る方や
この方がメンターですよとあてがう方は
ちょっと違うような気がする。
企業のメンター制度の難しいのはここだ。

だからこそ、日々の人との出会いの中で
ああ、会えて、学ばせてもらってありがとうと心から思えることがあったとすれば
それは、幸運の中でも相当のもののような気がする。